トリチウム汚染水の海洋投棄
先崎千尋(元瓜連町長)
○アンダーコントロール
読者の皆さんは「アンダーコントロール」という言葉を忘れてはいないと思う。二〇一三年九月にブラジルのブエノスアイレスで開かれたIOC総会で、安倍首相は東京への五輪招致演説をした。「福島は統御されている。汚染水は〇・三%の港湾内で完全にブロックされている。東京に悪影響を及ぼすことはない」と言い切ったのだ。英語では「アンダーコントロール」だ。オリンピック委員会のメンバーがそれを本当に信じたのかどうかはわからないが、この時点でも地下水が福島第一原発の敷地内に流れ込み、汚染されて海に流れ出ていた。「アウト·オブ·コントロール(制御不能)」だったのだ。
安倍首相は「子どものころからしれっとウソをつく。気が強くわがまま。自分を成長させる学習能力の欠如。責任を取らない」(野上忠興『安倍晋三 沈黙の仮面』など)。そういう人だから、七年前に海の向こうで言ったことなどとうに忘れているのだろうけれど、福島の人たちは今でもあの原発事故に苦しめられている。
その福島で今問題になっているのが、汚染水を浄化した後に残る放射性物質トリチウムなどを含む処理水(以下トリチウム汚染水)の処分問題だ。このトリチウム汚染水の問題は福島の人たちだけでなく、わが茨城の私たちにも影響があり、ひとごとではない。今回は、このトリチウム汚染水とはどのようなものなのか、国や東京電力はどうしようとしているのか、地元はどう受け止めているのか、どうすればいいのかについて、整理して皆さん方の判断材料にしたい。
○トリチウム汚染水とは
汚染水のおおもとは、一~三号機の原子炉建屋で溶け落ちた核燃料の冷却のために注がれている水だ。核燃料に触れた水は、セシウムやストロンチウム、トリチウムなど63種類の放射性物質が溶け込み、高濃度の汚染水になる。冷却に使う水は循環させ、なるべく汚染水を増やさないようにしているが、建屋の破損した部分などから地下水や雨水が流れ込み、新たな汚染水が生まれてしまう。一日に増える量は二〇一四年には五四〇トンもあった。地下水のくみ上げや雨水の浸透を防ぐ対策で抑えているものの、昨年度でも一日平均一八〇トン増えている。それが現在では百二十万トンにもなっている。福島第一原発を上空から写した映像を見ると、敷地内を埋め尽くすほどに並んでいる水色や灰色のタンクが目に入る。それが汚染水のタンクだ。東京電力は、二年後の二〇ニ二年には保管スペースがなくなってしまう、と説明している。
建屋内の汚染水はまず「セシウム除去装置」にかけ、放射線の大半を占めるセシウムとストロンチウムの濃度を下げる。次に、「淡水化装置」で、淡水と塩分や放射性物質を含む濃縮水に分離。淡水は核燃料の冷却に再び使い、濃縮水は「多核種除去設備(ALPS・アルプス)に通す。こ
こでトリチウム以外の核種をほとんど取り除き、環境中に放出してもよいとされる法令の基準値(告示濃度)以下に
する。しかし、ALPS設置当初は性能を発揮できず、現在のタンクの水の約七割は放出基準を超え、最大で二万倍にもなっている。
トリチウムとは、三重水素とも呼ばれ、化学的性質は水素と同じだ。水の状態で存在するために除去は難しい。放射能が半分に減る半減期(元の原子核の数が半分になる時間)は一二・三三年。宇宙線が地球の空気にぶつかった時に出るので自然界にも水の形で存在するが、核実験や原発施設からの放出で増加している。トリチウムの影響については、専門家でも意見が分かれている。国は「水と同じ性質を持つため、人や生物への影響は確認されていない」としている。しかし一部の専門家からは、食物連鎖の中で濃縮が生じる、水なので人体に取り込まれて遺伝子を傷つける、海中生物だけでなく陸上の植物や生物への影響がある、漁業にダメージを与える、などのことが指摘されている。
○国や東電の姿勢
原子力規制委員会の田中前委員長、更田現委員長は、トリチウム濃度を告示濃度以下に薄めて海に流せ、と発言してきた。経産省は二〇一三年から有識者会議や小委員会を設置し、地層注入、海洋放出、コンクリート化して地下埋設、水蒸気にして大気放出、水素にして大気放出の案を検討してきた。一六年八月には「海洋放出がコストも安く短期間で処理できる」とした。昨年九月に、退任前の原田環境大臣は「海洋放出しか方法がない」と記者会見で述べた。大阪市の松井市長は「科学的根拠を示して海洋放出すべき。大阪まで持ってきて流すなら協力の余地はある」と発言し、周辺の自治体から反発を受けた。
今年二月には、委員会は「現実的な選択肢は海か大気への放出で、海洋放出の方が確実に実施できる」という報告書をまとめた。また、二〇一八年と今年に、公聴会や自治体の首長、業界団体の関係者から意見を聴く会合を開いている。
当事者の東京箪力は、「政府の方針が決まったら二次処理を行い、問題ない国のレベルまで下げる」と、国の決定を待つ受け身の姿勢でいる。これまでに、東電による二次処理(再浄化)の試験は実施されていない。従って、再浄化の効果は示されていない。しかし、いくら処理しても、取り除いた放射性物質が消えてなくなるわけではない。東電は、二二年までに一三七万トンの貯蔵能力を確保するとして現在タンクの増設を行っているが、それ以上の敷地の確保は出来ないので、希釈して海洋放出をしたい、と考えている。三月には海洋放出か大気中の水蒸気放出の検討素案を公表した。このように、国や東京電力の考えはほぼ海洋放出に固まっているようだ。
○自治体、漁業関係者などの反応
朝日新聞と福島放送が今年二月に福島県の有権者を対象に行った世論調査では、「処理水」を薄めて海に流すことに対して反対が57%、賛成が31%だった。
同県では、県議会が丁寧な意見聴取や風評被害対策を求める意見書を採択し、郡山市、浪江町議会など一三議会が海洋放出に反対する決議を、八市町村が慎重に検討するよう求める意見書を採択している。隣の宮城県議会も放出反対の意見書を可決した。茨城県では、大井川知事が白紙で検討するよう国に要請し、豊田北茨城市長らが反対を表明している。
漁業関係では、全漁連、福島県漁連、宮城県漁運、茨城沿岸地区漁連などが反対の立場。福島の漁業者は未だに試験操業の状態にあり、市場へ出荷することができないでいる。基準値以下に希釈しても、海洋放出は自分たちの死活問題だとして強硬に反対している。福島県漁連は、二〇一五年八月に東電から「ALPSを通した水は海洋投棄しない」という回答をもらっている。福島第一原発事故後、未だに六つの国と地域(中国、香港、台湾、マカオ、韓国、アメリカ)では日本からの食品輸入に規制をかけている。風評被害は後々まで後遺症として残るのだ。
さらに、韓国、台湾、フィリピンなどの団体からも「福島汚染水が放流されれば、韓国の東海(日本海)に流入する。海洋生態系と韓国国民の健康は深刻な脅威にさらされる。海洋放出は海洋投棄規制条約·ロンドン条約などの国際法に違反する」などと反対の声があがっている(韓国「ハンギョレ新聞」8月4日付け社説)。わが国は、この条」約に一九八〇年に正式加盟している。
○ではどうするか
「ハンギョレ新聞」は「最も現実的な選択肢は、ひとまずタンク保管を継続することだ。福島第一原発には土地がないというが、周辺には放射性廃棄物を保管するための広大な土地がある」と書いている。福島県漁連も夕ンク等による陸上保管を求めている。
技術者や研究者が参加している民間のシンクタンク「原子力市民委員会」は、大型タンク貯留案、モルタル固化処分案の二つを提案している。大型タンク貯留案は、ドーム型屋根、水封ベント付きの10万トンの大型タンクを八百mx八百mの敷地に20基作れば48年は使えるという。モルタル固形化案は、汚染水をセメントと砂でモルタル化し、半地下の状態で保管するというもの。同じ面積で十八年分保管できる。大型夕ンクだと六百億円、固形化だと二千億円かかるが、福島原発事故処理に政府試算で二十二兆円、日本経済研究センター試算で七十兆円かかるのだから、安いものではないか。トリチウムの半減期が約十二年なので、両案の併用でもよい。